アンダスタンド

わからないことだらけです。

努力教の信者ですので

一昨日から残業規制が始まりました。

昨日いきなり取引先の接待があったりもしましたし、実際今後どこまでの強制力をもって運用されるのかは未知数ですが、とにもかくにも始まってしまいました。

規制の運用を知っているのは本人である私と、課長と、部長のみ(と聞かされています)。直属の上司やその他周囲には知らされていないそうです。産業医面談の際に「頼むからこれ以上大ごとにしないでくれ」と懇願したのが効いていると信じたいです。

 

近年で随分と変わってきたとはいえ、私の務める会社はとてもレトロでクラシカルな会社(オブラート)なので、未だに「汗水垂らして働いたやつが偉い」「残業してでも頑張ったやつが偉い」という風潮が残っています。一昔前までは「不夜城」と揶揄されていたような会社ですので、制度として整備されてるとはいえ体質的にややブラックなところがあるのです。24時間戦えますかジャパニーズビジネスマン。

私もそんな中で会社員として「ひとやま3年」を超えて育てられたひとりですので、いくら違うと分かっていても、こと会社の仕事に関しては「頑張ったやつが偉い」が皮膚感覚として染み付いてしまっているところがあります。

普段の思考回路としては結果主義者的な部分も多いのですが、弊社で周囲に認められるにはやはり「残業してでも頑張っているポーズ」が大事なのです。

 

そういう環境の中で「極力残業をしない」というのは、意外とストレスに感じられます。

 

評価されたいわけでも出世したいわけでもないので「評定」がどうなろうと構わないのですが、「評判」が落ちることを恐れているのかも知れません。(落ちるほどの評判が元々あったのかというのは、また別の話ですが…)

 

「頑張る人」であることをアイデンティティにすることは愚かだと、(あくまで一個人の意見として)私は思っています。頑張りは手段であって目的ではないからです。

 

そう思っていたのに、いざ「頑張ること」を取り上げられると、こんなにも全てを奪われたような気分になる自分がいました。

 

今年の私は気付かないうちに、自分が一番忌避していた「頑張ることが目的」で「人並み以上に頑張ってる自分は偉い」という人間になってしまっていたのだと思います。とても不毛で情けないです。

本来そういうタイプの人間ではなかったと思うのですが、人間の思考回路は環境や体調に左右されるのでしょうか。不思議なものです。

 

だから、本当に全てを取り上げられたような気になっています。悔しいのです。

そのくせ、元来のサボり好きな性格がたまに顔を出して、これ以上無理に働かなくて良いことに時折ホッとしたりもするのです。

そういう、都合の良い自分に苛立ちます。

 

なんだか楽な方へ、弱い方へと流されている気がします。私はこのまま庇護される弱者になるのでしょうか。転落していくのでしょうか。

本当は仕事をしていたはずの数時間で、そんなことばかり考えてしまいます。